発掘調査
権現遺跡
権現遺跡は、笠原川の流れによって造り出された地形(河岸段丘)の上に上流から運ばれた砂や礫が厚く堆積した場所(氾濫原・自然堤防)で、調査前は一部を除いて水田や畠が拡がっていました。
1.遺 構
(1)暗(あん) 渠(きょ)
暗渠とは、「おおいをした水路。灌漑・排水などのために地下に設けた溝」(広辞苑 第六版)のことです。今回発見された暗渠は2条あり、ともに現在の水田の水落ちを防止する土層(床土(とこつち))の約10㎝下で見つかりました。そのうちの1条(SX02)は南西方向から北東方向にむけて一直線に伸びており、確認された長さは約25mです。幅約70~90㎝、深さ30~60㎝の溝を掘り、その中に人頭大の石を2列に並べて幅約10㎝の水路を作り、蓋石を置いて小石を隙間に詰め、最後に土砂を覆い被せてありました。この暗渠は多治見市教育委員会の調査によって北東側の端部が見つかっていますが、他の遺構とは接続していませんでした。この暗渠で注目されるのは、その位置と方向が現在の水田区画の境界(畦道(あぜみち))のそれとほぼ完全に一致している点です。もう1条の暗渠(SD07)は、緩やかに曲っており、やはり一方の端部が確認されました。長さは4.3m分しか見つかりませんでしたが、幅約50㎝、深さ30~40㎝の溝の中にSX02とほぼ同じ大きさ・作りの石組み水路が築かれており、端部はやはり他の遺構と接続していません。
2条の暗渠は石組み水路の作りや大きさが似ており、水路の底に傾斜がつけられていない点、流水の跡が見られない点、端部が他の遺構とつながることなく突然終わっている点などの共通点があります。さらにSX02の位置と方向が現在の水田区画(畦道)のそれとほぼ一致する点は重要で、両者の間に何らかの関係があることが窺われます。ちなみに、江戸時代後期の農業書である『農具便利論』には、水はけの悪い沼田の排水施設として暗渠が利用されていたことが記されています。ただ2条の暗渠の上に拡がる現在の水田は、水落ちを防ぐ床土が貼り巡らされているため、排水に苦しむような沼田でないことは明らかで、2条の暗渠を現在の水田そのものに係る排水施設と考えることはできません。2か年の調査で水田の下を広範囲にわたって調査しましたが、暗渠はこの2条以外に発見されず、今のところ、その性格は不明です。
暗渠の築造年代については、石組み水路の裏込め土の中から18世紀までの遺物がわずかに出土していることから、江戸時代に下る可能性も考えられます。なお、SX02の石組み水路に使われている石の種類を調べたところ、花崗岩とホルンフェルスがともに46%、チャートが7%、礫岩が1%でした。これらの礫は、基本的にすべて笠原川の流域で採集できるものです。
(2)礫(れき)集積遺構
暗渠の周辺で約20基が検出されました。暗渠の少し上の面で発見されたこの遺構には、①長軸が暗渠(SX02)と80~85°の角度で交わる長方形プランのものと、②それ以外のものがあります。①型は幅約1~2m、深さ約10㎝の浅い掘り込みのなかに人頭大までの礫が集められており、それ¥がいくつも連続して築かれています。但し、礫の密度には遺構によって大きな差が見られます。いくつかの①型はSX02を覆っている土を掘り込んで築かれていますが、多くの①型は2条の暗渠を避けるような形と配置になっています。今のところ、①型と暗渠との関係は明らかではありませんが、このような①型のあり方は、その築造にあたって地中にある暗渠の存在が強く意識されていたことや、両者が比較的近い時期に築かれたことを伺わせます。
②型は①型のような明瞭なプランや規格は認められず、礫の大きさも大小様々です。①型より大きな破片の遺物がたくさん出土し、その中には須恵器(すえき)や灰釉(かいゆう)陶器(とうき)などの古い遺物も含まれていました。②型はその南側の端部が現在の水田の境界(水路)とほぼ合致している点が注目されます。
(3)溝・土坑・柱穴
調査区域全体で見つかっていますが、その分布状況は一様ではありません。暗渠や礫集積遺構が発見された地点では、下層の南北約50mの範囲で多くの柱穴や土坑が見つかりましたが、隣接する区域や後述する自然流路が見つかった区域ではほとんど発見されていません。
さて暗渠や礫集積遺構の下層では、柱穴139基・土坑54基・溝15条などが確認されています。その中で注目すべき遺構としてSK12とSK29があります。SK12は平面形が隅丸長方形で、一辺1.4~1.9m、深さ0.34mの土坑です。この遺構からは完形品を含む多くの山茶碗が出土しており、それらは13世紀中葉から14世紀前葉にかけてのものです。SK29はきわめて大きな(長辺3.76m、短辺1.66m、深さ0.4m)長楕円形の土坑で、やはり14世紀代を中心とした山茶碗が多数出土しています。また139基の柱穴については、おそらく掘(ほっ)立柱(たてばしら)建物(たてもの)や柵列などの痕跡と考えられますが、このような高い遺構密度と豊富な出土遺物は、鎌倉時代から室町時代にかけてここに集落がひろがっていたことを窺わせます。
ところで、これらの遺構群から南へ約20m離れた場所で大きな溝(SX01)が発見されています。この溝は北東方向から南西方向へほぼ一直線に伸びており、確認できた長さは約16mです。最大幅は3.6m以上、深さは0.4~1mで、凹凸が激しい溝底は南西端の方が約20㎝低くなっています。この溝の特徴は、覆土の中にたくさんの礫と遺物が含まれている点です。礫は一辺20~40㎝の角礫が多く、投げ込まれたような乱雑な状態で出土しています。遺物は13~14世紀の山茶碗が多く、完形品を含む大きな破片が目立ちました。また、この溝のすぐ東側では、溝とほぼ併行して並ぶ柱穴列が見つかっています。直径20~31㎝、深さ5~16㎝の6基の柱穴が、1.72~2.6mの間隔でほぼ一直線に並んでおり、2基の底には根石がありました。溝と柱穴列は、その位置関係や方向からみてセットで築かれた可能性があります。ちなみに両者の位置と方向は、現在の大きな畦道と基幹水路のそれとほぼ合致しており、このラインを挟んで現耕作面には著しい高低差が認められます。つまりこの溝と柱穴列は、現在の田園風景の中に見られる土地境界が鎌倉時代にも同じように意識されていた可能性を示すものとして、きわめて興味深い存在です。
(4)「権現(ごんげん)」遺構
調査区域の最も北寄りで見つかった遺構です。全体の大きさや形状はわかりませんが、南北約4m、東西35mの範囲内に最大約80㎝の高さで大小の石が積み上げられており、石積みの最上面は一部が地表面に露出していました。積み方は規則性のない乱雑なもので、医師の間には多量の土が交じっていました。また石の中に残りの良い遺物が多量に含まれる点もこの遺構の大きな特徴で、その内容は鎌倉時代の山茶碗から近・現代の陶磁器まで多岐にわたります。この場所は、地図上でも耕作地の境界部分に一辺2~3mの台形の区画として見ることができますが、地元の言い伝えによれば、かつてここに字名の由来になった「権現」があり、信仰の対象になっていたようです。ただ、「権現」そのものは他所へ移転してしまったようで、今のところその実態についてはわかっていません。
(5)石組み遺構
調査区域の北端部において、現在の耕作土のすぐ下から2基が見つかりました。うち1基(SX01)は全体の形はわかりませんが、深さ約80~90㎝の掘り込みの中に厚さ30~40㎝の裏込め土を入れ、護岸のための礫を3~4段積み上げたものです。もう1基(SX06)はSX01のすぐ東側で見つかりました。長辺5.6m以上、短辺3.8m前後、深さ最大約40㎝の平面が隅丸方形の大型土坑です。残りは良くないものの、北辺と東辺には礫が1~2段積み上げられていました。SX01・06の間とすぐ北側には、幅・高さともに約30㎝の畦道のような土盛りが巡っていました。この土盛りとSX01・06は、近年までの調査区一帯の土地利用状況(棚田・畠)からみて、埋め立てられたかつての水田か畠という可能性もありますが、今のところその性格は不明です。これらの遺構は出土遺物から江戸時代に造られたものと思われます。
(6)自然流路
水田の床土のすぐ下(上面)と、そこから黒色粘質土(遺物包含層)を掘り下げて確認できた面(下面)の2面で確認されました。下面の自然流路は、幅約6m、深さ70㎝前後の本流がゆるやかに蛇行しながら南東から北西へむかって流れており、途中で細い2条の支流が北方へ分かれています。本流の底の砂礫層からは絶え間なく水が湧き出していました。本・支流を埋めている黒色粘質土からは、奈良時代の須恵器や平安時代後期の山茶碗がわずかに出土しており、ここを水が流れていたのは古代まで遡るものと思われます。上面で検出された自然流路は、幅が一定せず、深さもごく浅いため、鎌倉・室町時代の間に少しずつ埋没していった下面の本流の痕跡であろうと思われます。なお黒色粘質土からは木杭や植物などの腐りやすいものも出土しているため、水田が作られる以前は湿地状態であったと思われます。
2.出土遺物
整理用コンテナに約85箱分の遺物が出土しました。まず縄文時代から古墳時代にかけての遺物は、土器・土師器の小片と石器の剥片(石器を作るときに出る石のかけら)がごく僅かに見られただけでした。奈良時代から平安時代についても、9・10世紀頃の須恵器(すえき)の坏(つき)・高坏(たかつき)・蓋、灰釉陶器の碗・皿・耳(みみ)皿(ざら)・瓶(へい)、土師器(はじき)の長胴(ちょうどう)甕(がめ)等が少量出土したにすぎません。
遺物の90%以上は、鎌倉~室町時代の無釉陶器、いわゆる山(やま)茶碗(ぢゃわん)です。山茶碗は均質な土を用いて薄くひきあげた「東濃型」が圧倒的に多く、これらは多治見市を中心とした東濃地方で焼かれたものです。器種は碗と小皿がほとんどですが、片口鉢や陶(とう)丸(がん)も少量出土しています。11世紀後葉から15世紀中葉までのものが見られますが、最も多いのは12世紀後葉~15世紀前葉のものです。山茶碗に次いで多いのが、鎌倉~室町時代の瀬戸窯で焼かれた施釉陶器、いわゆる「古瀬戸(こせと)」です。器種は平(ひら)碗(わん)・天目茶碗・縁釉(えんゆう)小皿(こざら)・折(おり)縁(ふち)深(ふか)皿(ざら)・卸(おろし)皿(ざら)・擂鉢・四(し)耳(じ)壺(こ)・瓶子(へいし)・広口壺・水注(すいちゅう)・花瓶(けびょう)・茶入・鍋など、バラエティに富んでいますが、平碗や折縁深皿が最も目立ちます。13世紀前葉から15世紀前葉までのものが見られますが、中心になるのは14世紀後葉以降のものです。他に常滑窯産の甕、中国産の青磁・白磁の碗・皿、土師器(はじき)の鍋・羽(は)釜(がま)等も少量出土しています。これらの鎌倉~室町時代の遺物は調査区域全体で出土していますが、上で述べた土坑や柱穴が集中して見つかった箇所で最も多く出土しています。また調査区域全体で15世紀後葉を境に遺物がほとんど見られなくなるという点も大きな特徴です。このことは、おそらくこの時期を境として調査地点における土地利用のあり方が大きく変化したことを物語っており、たとえば日常的に陶磁器が使用される生活の場から、耕作地などの生産の場へと変化した可能性が考えらます。ほかに江戸時代の陶磁器や匣(えん)鉢(ごろ)・輪トチ等の窯道具もごく少量見つかっています。
3.まとめ
2年間の発掘調査によって延長約210mの道路建設予定地内に眠っていた埋蔵文化財がその姿を現しました。耕作との関わりが窺われる暗渠や礫集積遺構、鎌倉~室町時代の集落の痕跡と思われる柱穴や土坑、今の地形からは想像もつかない古代の自然流路、そして地域の信仰の対象であった「権現」遺構など、この地に生きた人々のさまざまな営みが明らかになってきました。当時の人々が使っていた山茶碗をはじめとする陶磁器や土器もたくさん出土しました。今後、解き明かしていかねばならない課題はたくさんあります。たとえば鎌倉~室町時代の集落が忽然と姿を消し、かわりに暗渠と礫集積遺構が築かれる経緯や、地名・遺跡名の由来となっている「権現」の正体などです。同じ遺跡を継続調査されている多治見市教育委員会の調査成果も参考にしながら、本遺跡の実態と地域内における位置付けを明らかにしていこうと思います。