発掘調査

穴田窯跡の発掘調査

 穴田窯跡は、瀬戸市の上水野地区にある江戸時代前期の連房式登窯です。連房式登窯は、薪を燃やす燃焼室の背後に製品を詰める小さな焼成室(部屋=房)が複数連なっていることからその名があり、現在瀬戸窯では50基以上が確認されています。その技術は17世紀初めに肥前地方から美濃窯へ伝わりましたが、それに瀬戸・美濃窯の大窯の技術が加わって独自に発展を遂げ、江戸時代を通じて陶磁器生産の主要な窯炉として活躍しました。
 本窯跡は、昭和52~55年に学術調査が行われ、1・2号窯跡の窯体とそこで焼かれた製品の様相が明らかになっています。とくに、16世紀に瀬戸・美濃窯で広く用いられた大窯の特徴を色濃く残す2号窯跡の窯体や、定光寺源敬公廟(初代尾張藩主徳川義直の廟所)に使われている敷瓦の類品が発見されたことは特筆すべき成果であり、在地の有力者であった水野久之丞が生産に関わっていたことも出土遺物から明らかになっています。
 今回の発掘調査では、上部施設(天井・側壁)は残っていなかったものの、3基の窯体を検出し、それらに伴う平坦面や粘土採掘坑も確認することができました。再調査となった1号窯跡は、全部で11部屋ある焼成室の最上段に位置する2部屋と、窯体脇の尾根筋を削って造られた平坦面・粘土採掘坑を検出しました。個々の部屋の床面プランは長方形を呈していますが、最上段の部屋にあるはずの煙出し施設は失われていました。一方、隣接する平坦面は、おそらく1号窯に伴う作業場として造営されたもので、粘土採掘坑についても1号窯の窯体構築や陶器の製作に用いる粘土を調達するために掘られたものと考えられます。
 以前からその存在だけが知られていた3号窯跡は、焼成室の中間部分の7部屋が確認できました。焼成室は部屋の中央に天井を支える柱が2本あること、出入口は1部屋を除いて右側にあること、部分的に床面の改修が行われていること等が判明しました。なお、床面プランは歪な台形を呈しており、これは3号窯跡だけにみられる特徴です。
 5号窯跡は近年新たに発見された窯跡であり、窯体の上半部にあたる焼成室5部屋とそれに隣接する平坦面が確認されました。窯体は部屋の床面プランが長方形であること、2本の天井支柱をもち出入口はすべて右側にあること、数次にわたる大規模な改造が行われていること、窯体の一部が物原層と盛土の上に築かれていること等が明らかになりました。隣接する平坦面は、おそらく5号窯に伴う作業場として造営されたもので、面上では均質かつ精良なシルト・粘土層の堆積が認められました。窯体と平坦面の変遷過程や両者の関係が注目されます。
 瀬戸の窯業生産は、16世紀後半に窯が美濃窯へ移転することによって、一時的に著しく衰退します。しかし、慶長15(1610)年に始まる名古屋築城を契機として、尾張藩が陶工を美濃から呼び戻すことによって復興したとされており、本窯跡はその頃の様子を伝える数少ない窯跡のひとつです。また、同じ頃に導入された連房式登窯という新しい技術を、瀬戸の陶工達がどのように受け容れていったのかを知るうえでも重要な遺跡ということができます。

A区 3号窯跡 窯体完掘状況(北東から)
A区 3号窯跡 窯体完掘状況(北東から)

B区 1号窯 窯体完掘状況(西から)
B区 1号窯 窯体完掘状況(西から)

C区 5号窯跡 窯体完掘状況(南西から)
C区 5号窯跡 窯体完掘状況(南西から)