染付年表をひも解く Unraveling the Timeline of Seto Sometsuke

1220年代 瀬戸で陶器生産始まる
1335~1367
(至元・至正年間)
中国元朝において染付の製法が確立
1369(洪武2年) 中国明朝、朝廷用祭器に磁器を用いることを勅令
1427(応永34年) 日本の文献に初めて「茶碗染付」の語が表れる
1615~1624
(元和年間)
肥前有田で李参平が日本最初の染付磁器を試作
1712(正徳2年) 肥後天草で良質の磁器石・天草陶石発見
1781~1789
(天明年間)
品野の窯屋、加藤粂八が肥前から逃亡してきた磁工 久米勇七(副島勇七)に従い、磁器・上絵付の製法を習得
①1220年代、陶器生産が瀬戸で始まる
瀬戸では良質な土が取れたので、平安時代からずっと陶器生産が行われていました。
1000年以上続く陶磁器窯の産地として「日本六古窯(ろっこよう)」の一つに数えられています。
古瀬戸前期 灰釉瓶子(市指定文化財/個人蔵)

戦国時代に「瀬戸山離散」と呼ばれる窯が激減した時期がありましたが、その後、尾張藩が成立し、瀬戸に職人たちを呼び戻し陶器生産を奨励、尾張藩の保護下で陶器が作られ続けました。
保護といっても規制は厳しく、窯屋の息子は長男しか跡継ぎになれない等、陶器生産業の過度な成長・発展はあまりのぞまれていなかったように思えます。

江戸時代の瀬戸には18の村がありましたが、 窯業を行っていたのは瀬戸村・赤津(あかづ)村・下品野(しもしなの)村の3つでした。
中でも瀬戸村は瀬戸川に面した谷の斜面に広がっており、田畑に適した平地が少ないため農業生産力が低く、わずか47戸のまさに窯業頼みの村でした。半農半工にもなれず村としては発展限界でした。


②1610年代、有田で磁器誕生
日本における磁器生産の開始は、1610年代の有田といわれています。
豊臣秀吉の朝鮮半島出兵時に朝鮮半島から陶工が招聘され、朝鮮からの帰化人である李参平が白磁染付の焼成に成功したことにより国内への流通が広まりました。 この軽くて丈夫な目新しい磁器は、庶民の間で需要が高まり、それに伴い各窯業産地でも技術開発や土の研究が行われるようになりました。
参平は有田町の人々から陶祖として崇められ、陶山神社に祀られています。


参平による産地の革新は瀬戸元来の陶器生産の衰微に拍車をかけました。それだけでなく、有田町の東端の泉山で白磁の陶石が発見され、九州の磁器生産はより一層急速に発展しました。
中でも「天草陶石」は、磁器に必要な成分が過不足なく含まれているすごい陶石(変質流紋岩火砕岩)。これを細かく砕いて水で練って粘土にし、伊万里焼や有田焼などが生産されるようになり、瀬戸の窯業は弱体化していきました。


③とりあえず陶胎染付を
佐賀範の御用窯 大川内(おおかわち)窯につとめていた勇七は、藩の役人と折り合いがわるく砥部・瀬戸へと逃げます。その道中で各所に磁器製作の秘法を伝えたのでしょう。
九州地方で真っ白な器が流行っていると聞き、瀬戸でもなんとかして白い器を作ろうと、陶土に白化粧をしたりして試行錯誤していました。残念なことに瀬戸の山からは九州の陶石のような磁器土はとれませんでした。なんとか工夫して作り出すしかありませんでした。

当面の間は陶器の素地に染付がなされていました。
染付に欠かせない絵の具「呉須」。肥前有田では長崎から輸入された「唐呉須」を使用していたようです。
瀬戸の山は磁器に適した土は取れなかったものの、天然の呉須が取れました。「地呉須」「山呉須」「砂絵」などと呼ばれ、伊万里とは違う、初期瀬戸染付の特徴の一つと言える呉須独特の発色に繋がるわけです。
地呉須は庄屋・焼物取締役の加藤唐左衛門が中心となって、付近一帯から盛んに掘り出すことになります(のちに呉須不足となり長崎から唐呉須を買い入れ、混ぜて使うようになりました。明治時代に合成呉須の技法に出会うまで買い入れが続きます)






1789(寛政元年) 加藤粂八と北新谷の窯屋・六代加藤忠治が共同で磁器を試造
1801(享和元年) 加藤吉左衛門・民吉親子が熱田奉行津金文左衛門の指導の下、磁器を試造
津金文左衛門が熱田古堤に染付焼窯を築窯
加藤唐左衛門が熱田古堤の窯を廃止を嘆願
瀬戸にて新製染付焼開始
尾張藩が瀬戸窯屋の嫡子のみに限った相続を磁器には適用しない旨通知
加藤吉左衛門、六代加藤忠治ら14名が磁器に転業
1802(享和2年) 御蔵会所設置
1803(享和3年) 尾張藩の援助で磁器焼造用丸窯を築窯
二代川本治兵衛が染付磁器の素地配合に成功
染付磁器が尾張藩の蔵物に定められる
六代加藤忠治が尾張藩に染付磁器十二俵を納める
④享和の年、磁器試作に成功
享和の年に、初めて磁器の試造に成功します。さらに試行錯誤が繰り返され、やがて独特の光沢のある合成磁器土が生み出されました。
天草陶石を始めとする九州の磁器土は、土練機で練ると聞いています。一方、瀬戸の合成磁器土は手で菊練りができるくらい成形しやすいのです。合成ならではでしょうか。白さは九州には及びませんが、やや灰色を帯びた柔らかな風合いがあると言われています。
釉薬も初めは、呉須がにじんだり流れたりしてしまっていました。そこで灰の種類を変えたり配合を変えたり試行錯誤を重ね、独特の青みがかったツヤのある釉薬が完成します。

柔らかな風合いの合成磁器土、天然地呉須、配合に成功した釉薬。
有田で磁器生産の産声が上がってから約200年後。ようやく瀬戸でも磁器の製造が開始されます。


⑤そのころの民吉、磁器土と格闘す
加藤民吉は、大松窯 加藤吉左衛門の二男として生まれました。
長男しか窯を継ぐことができなかったため、兄に窯業をまかせ、父親と一緒に熱田前新田の開拓をしていました。
瀬戸に通い試し焼きを重ね、盃程度の小品を焼けるようになり、熱田に築窯したのです。
この開拓の様子が当時の尾張藩熱田奉行の津金文左衛門の目にとまり、民吉が研究していた南京焼(磁器)の研究を手伝うことになります。
瀬戸が寂れることを恐れた加藤唐左衛門は、尾張藩に、熱田から瀬戸へ窯を移すよう嘆願します。


⑥革新

加藤唐左衛門・加藤吉右衛門・川本治兵衛を含む16家が磁器窯屋へ転業しました。
またちょうどこの頃、長男しか継ぐことのできなかった窯業を二男・三男も担えることになり、ますます転業が相次ぎ、文化元年には加藤民吉・川本半助など28家が加わり、 文正5年には瀬戸村における染付焼窯屋は91家にもなりました。やがて、磁器生産が陶器生産をしのぐようになりました。

1000年の長きにわたって作られ続けた陶器は "瀬戸本来の仕事" という意味で「本業焼(ほんぎょうやき)」と呼ばれ、一方磁器は "新しい仕事" という意味で磁器は「新製焼(しんせいやき)」呼び分けられました。
染付磁器は新しい仕事、まさに革新だったのです。


⑦尾張藩との専売制度
尾張藩は、この新しい焼き物に専売制度を導入して生産・流通を藩の統制下に置き、より強力に窯屋をバックアップする体制になります。
流通に藩が介入することで、窯屋は制作に集中し、銭回りをよくして、なおかつ藩は冥加金を得て、藩の財政にも寄与する理想的な関係になります。
陶器から磁器に転業し、磁器生産での分業制が確立され、職人たちが腕を振るい、高品質な染付磁器が大量に作られるました。そのスピード感はまさに技術革新だったことでしょう。





1804(享和4年) 津金庄七「「新製染付焼き開発のこと」によると、瀬戸村で民吉親子を含む28戸、赤津8戸、下品野6戸の染付窯屋が開窯していたと記録にある
加藤民吉が摂津三田窯を視察
1804(文化元年) 加藤民吉が九州へ出立。天草、三川内にて磁器製法・丸窯などの知識を習得
尾張藩勘定奉行により、染付蔵物に押印される「尾張」の木印が下される
加藤吉左衛門(民吉父)が本業焼併新製焼取締役に就任
1807(文化4年) 加藤民吉が瀬戸に帰着
1812(文化9年) 加藤唐左衛門が新製焼取締役に就任
染付窯屋は瀬戸村67戸、赤津8戸、下品野6戸と記録あり
1814(文化11年) 加藤唐左衛門が上半田川村にて良質の千倉を発見
1816(文化13年) 瀬戸の窯屋167戸のうち、染付窯屋が88戸となる
染付焼御用達となり、御用品が数多く制作される
1818(文政1年) 二宮守恒が加藤民吉に取材し「染付焼起源」を著す
1822(文政5年) 瀬戸村で本業焼が66戸14窯に対し、染付焼は91戸17窯に達した
1826(文政9年) 加藤民吉、窯神神社に合祀
1839(天保10年) 三代川本治兵衛が銅版染付を試造
1845(弘化2年) 四代川本半助が染付磁器の素地・釉薬にギヤマン(珪石)を加え、品質の向上を図る
1849(嘉永2年) 三代川本治兵衛が美濃伊岐津村にて良質の磁土・イギ土(カオリン)を発見
1848~1854
(嘉永年間)
三代加藤新七が名古屋川名にて銅版染付専業窯を開く
1855(安政2年) 92軒の染付窯屋のうち32軒が中絶
⑧民吉、九州へ
瀬戸で作り始められた磁器は、本場九州に比べると技術的に劣る点が認められ、肥前磁器の技術を学ぶ必要がありました。
そこで1804年、尾張藩や瀬戸の窯屋たちの支援の下、民吉は九州天草の東向寺の天中和尚(瀬戸出身)を頼って旅に出ます。
磁器の製法は窯場に就職すれば学ぶこともできましたが、染付の技法は秘伝扱いでした。特に有田・伊万里は藩の専売品製造とされており、他所者が教わることは絶対に不可能でした。
名僧の誉れ高い住職、天中和尚の紹介ならばと天草高浜焼 上田家が民吉を受入れてくれました。1年働くも秘法は教われず、翌年1805年、長崎県佐々町の福本家の窯場に移り住み働くもやはり習得できず、失意の中瀬戸に帰ることを決めます。最初に受け入れてくれた上田家にお礼を言って帰ろうと再訪した際に、民吉の熱意に打たれた上田宜珍が染付の秘法を伝えました。1807年まで修業し、民吉は帰国します。

現在、天草市の東向寺には「民吉翁之碑」と、染付タイルで描かれた「天中民吉邂逅の図碑」が据えられています。
 


⑨技術の伝承
民吉が習得した製土法・成形法・釉薬調合法・焼成法・絵付技法などの技術により瀬戸の磁器焼成品質は向上し、瀬戸窯業に隆盛をもたらしました。
天保年間以降の瀬戸村を描いたとされる「瀬戸かま元図」(西尾市・岩瀬文庫)によると、瀬戸村の丸窯は4基、染付窯は10基、本業窯は15基で、染付窯屋は92軒全員が操業していたようです。瀬戸における染付磁器の発展を物語っています。 還元焔に至る責め焚きの技法などソフト面での焼成技術伝授が多かったため資料が存在しないのですが、 瀬戸焼は結果としてその後大きく発展しています。

民吉は没後の1826年に窯神として祀られ、磁祖となりました。
第5回 加藤民吉勉強会
磁祖 加藤民吉の紹介
民吉像(瀬戸蔵ミュージアム)


⑩一時衰退
尾張藩蔵元制度を通して、江戸を中心とした大消費地に販路を拡大することができ、磁器生産は安定していました。
しかし1855年にはほぼ三分の一の32軒が中絶するなど衰退傾向をみせます。美濃窯産の染付磁器の急増したのが要員ではないかと考えられています。





1858(安政5年) 三井組の注文を受け、加藤兼助・川本半助・井上延年らが米国輸出用の洋飲食磁器の見本制作と生産を開始
この頃に赤津から蛙目粘土の産出が確認
1861(文久元年) 名古屋川端筋の「角吉」が瀬戸にアメリカ向けのコーヒーカップ等を発注
1863(文久3年) 再び三井組の依頼で輸出見本数種が製作される
1867(慶應3年) 瑞穂屋清水卯三郎(東京)がパリより酸化コバルト等陶磁器顔料を持ち帰る
1871(明治4年) この頃、田代安吉(有田)を通じて、瀬戸に酸化コバルトがもたらされる
この頃までに、肥前志田窯にて摺絵技法再興
江戸~明治 明治維新
1872(明治5年) 二代加藤周兵衛が澳国博覧会出品青華製造取締役に任命される
1873(明治6年) ウィーン万国博覧会開催(オーストラリア)
愛知郡山口(現瀬戸市)にて良質の蛙目粘土発見
1874(明治7年) 松村九助(有田・名古屋)を通じて、瀬戸に酸化コバルトの使用法がもたらされる
輸出用コーヒー碗の生産始まる
ウィーン万博派遣の伝習生がヨーロッパより直焔式丸窯などの技術を持ち帰る
1875(明治8年) 加藤五助・川本桝吉らが加藤友太郎・川本富太郎より石膏型の製法を伝授される
1876(明治9年) フィラデルフィア万博開催(アメリカ) 
1878(明治11年) パリ万博開催(フランス)
⑪輸出を見据えた動き
まだ横浜が開港する前、維新よりも前に、せとものを輸出しようと先見の明のあったイノベーターたちが動き出します。
三井組が70~80種の舶来見本を持ってきて、加藤兼助に輸出用磁器の見本制作を依頼。
名古屋「角吉」がアメリカ向けのコーヒー碗などを発注。
再び三井組が輸出見本を数種類、瀬戸に依頼。

そして迎えた明治維新。
尾張藩の庇護がなくなり、自由に生産ができるようになった一方で自立が求められる時代になります。
革新的な瀬戸新製焼の窯屋たちは、維新前から「輸出向け食器」の需要を肌で感じ取っていたもしれません。


⑫明治維新
明治維新により窯株制や蔵元制がなくなり、瀬戸の今までの生産流通体制は多少混乱しました。洋飲食器生産では問屋・商社・製造卸・絵付業・下請等の関連の名古屋の企業濫立し、瀬戸に盛んに買い付けにきました。
1907年には、国際貿易港 名古屋港が開港し、瀬戸の中核性は再び強化されました。
瀬戸から名古屋まで、輸出用陶磁器を大八車に乗せ馬車で運んだり、人力でかついで運びました。一日で辿り着けないため、途中の尾張旭や大曽根で一泊して港まで運びましたが、半分以上割れていることもありました。


⑬ウィーン万博に参加
1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会は、明治政府が初めて正式に参加した国際博覧会(万博)です。
ウィーン万博は「新しくなった日本を全世界に喧伝する」という使命を帯びていました。工芸品(浮世絵・染織品・漆器・櫛・人形)、美術品(仏像・楽器・刀剣・甲冑・陶磁器)、生活用品、国宝、名古屋城の金シャチ(消失する前のもの)、神社、日本庭園まで、日本中のありとあらゆるものをウィーンに運び、展示しました。
陶磁器の中には、先行してパリ万博(1867年)に参加していた薩摩や伊万里だけでなく、瀬戸も含まれていました。
染付松竹梅文大水鉢 二代・加藤杢左衛門(ウィーン万博会事務局)


⑭高評価を得るも生産過多で不況に
ウィーン万博をきっかけに、瀬戸の陶磁器輸出の動きが加速していきます。
万博で伝習生(西洋の技術を学ぶために日本から派遣した技術者たち)が持ち帰った「石膏型による製法」や、合成呉須の技術が次々と取り入れられました。
1876年のフィラデルフィア万博や1878年のパリ万博では、多くの瀬戸の窯屋が出品し非常に高い評価を受けています。 海外から新たな技術を取り入れ、また窯屋同士で連携して、陶磁器の技術研究が盛んに行われていたのです。

フィラデルフィアやパリ万博の頃にできたのが森村組(現ノリタケ)です。
森村組の大倉孫兵衛は、ニューヨークから注文を受けコーヒー碗の試作を京都などの窯元に依頼します。
しかし取っ手の付いた茶碗は当時は馴染みがなく、なかなか引き受けてもらえません。探して探してようやく瀬戸の川本桝吉(初代)・川本半介(六代)らが名乗りを上げたのでした。

森村組だけでなく、他産地でも輸出向け陶磁器の製造需要が高まり、どんどん陶磁器が作られました。
装飾性の高い有田や京焼とは違い、日常雑器としての実用性を重視したデザインが発展しました。全国の商人による流通が進み、庶民の間で「瀬戸焼」が広く知られるようになります。
ただし、中国・オランダなどの外国産磁器が輸入されたり、有田焼のブランド力には勝てなかったりと、高級品市場には決して入り込めませんでした。

窯元たちは、有田焼や美濃焼との競争が激化する中、市場規模や需要がどうなのかを調査・把握しないままただただ作り続けました。結果、生産量を増やすために粗製濫造が進み、品質が低下。安価な商品が多くなり、ブランド価値が下がり、産地全体が不況に陥りました。





1883(明治16年) 加藤紋右衛門ら113人からなる瀬戸陶磁工組合設立
森村組(現ノリタケ)、川本桝吉にコーヒーカップの見本を示しその製作を依頼。わが国最初の六人具の製作
1887(明治20年) 加藤繁十が素焼窯考案
五十嵐健二(土岐)が白笈を使用した銅版下絵を考案
1889(明治22年) 加藤米次郎・元次郎(多治見)が銅版下絵の特許取得
大倉孫兵衛(東京)がゴム印絵付法を欧米から持ち帰る
1894(明治27年) 名古屋陶磁器貿易組合設立
瀬戸陶磁工組と名古屋陶磁器貿易商組合と連合交渉会議規約を締結
1896(明治29年) 松村八次郎(名古屋)が純白硬質磁器の特許取得
1899(明治32年) 瀬戸陶磁器工商同業組合設立
1902(明治35年) 黒田政憲の指導の下、瀬戸陶磁器試験場に石炭窯を築くが失敗
松村八次郎が松村式石炭窯(倒焔両焚式一間窯)を発明
1904(明治37年) 森村組が純白硬質磁器の量産を試みる
1905(明治38年) 瀬戸自動鉄道 運転開始、セルポレー式蒸気動車で人も貨物も運んだ(故障多し)
1906(明治39年) 瀬戸電気鉄道株式会社 ”瀬戸電” 誕生、チンチン電車での陶磁器輸送が始まる
1909(明治42年) 北村弥一郎の指導の下、フランス式石炭窯を築く
名古屋陶磁器貿易商工同業組合設立
⑮森村組による輸出陶器の打開策
1885年、森村組はインポートオーダー制(注文生産)を導入しました。 契約してから必要な数を発注することで、無駄を省き、また収益化を確約したのです。これまで見込み生産だった窯元たちは、この新しい仕組みによって安定してたくさんの輸出品を生産できるようになりました。これもまたイノベーションですね。

1892年、森村組は名古屋支店を開設。新物陶磁器を扱う商売がさらに有望になると考え、その翌年には、加藤春光をはじめ川本桝吉、高島徳松などの技量の優れた窯屋と「手窯」と呼ばれる専属契約を結ぶことにしました。
手窯の窯元たちは磁器素地を制作し、森村組に卸しました。そして別で森村組と専属契約した絵付け工場にて九谷絵・錦手などの画付けをし、より効率的で大規模な生産体制を実現したのです。
瀬戸の窯元と手窯をした森村組は、高品質な陶磁器を数多く輸出し、日本の対米陶磁器輸出の4分の1を占めるまでになりました。


⑯輸送経路の整備
1905年に瀬戸自動鉄道の運転がはじまり、フランス産セルポレー式蒸気動車が瀬戸~矢田を走るようになりました。ちょっとした坂で止まり、乗客みんなで押して動かしたようです。
蒸気を出して走っていた気動車が、1年後にはチンチン電車へと切り替わり、電化開業時の瀬戸では町をあげての祝賀ムードになりました。芸妓が踊りながら町を練り歩いたそうだ。同じ年には、工事が遅れていた矢田〜大曽根間も無事に開業。
瀬戸から素地だけを買い入れて、絵付けをほどこして輸出をおこなう問屋街が名古屋に作られました。 輸出業者も増え、海外に会社を創設したり、瀬戸の陶磁器は海外へと販路を拡げていきました。






1925(大正14年) 5月20日 窯神神社が放火により全焼
1926(大正15年) 10月21日 瀬戸陶磁器工業組合(現、愛知県陶磁器工業協同組合)設立
1927(昭和2年) 10月 民吉に取材した歌舞伎「明暗縁の染付」大阪中座にて初演
1928(昭和3年) 11月10日 津金文左衛門に正五位、加藤民吉に従五位が追贈
1932(昭和7年) 日本陶器(現ノリタケ)ボーンチャイナ製造開始
1937(昭和12年) 9月 瀬戸初の銅像として磁祖加藤民吉像が窯神山に建立
12月8日「尾張磁器発祥の地」碑建立
3月「津金親子頌徳碑」建立
1958(昭和33年) 3月29日 瀬戸染付着画の技術が愛知県指定無形文化財に認定(保持者:山田良治)のち解除
1972(昭和47年) 9月4日 染付磁器技術が愛知県指定無形文化財に認定(保持者:河本礫亭)のち解除
1994(平成7年) 2月13日 陶芸瀬戸染付技法が瀬戸市指定無形文化財に認定(保持者:加藤靖彦)のち解除
1997(平成9年) 瀬戸染付焼が通産省指定 伝統工芸品に認定
2000(平成12年) 古陶園竹鳳窯のあった場所に
「瀬戸市マルチメディア伝承工芸館」「瀬戸染付研修所」開設
2007(平成19年) 当館古窯が経済産業省の近代化産業遺産に認定
2014(平成24年) マルチメディア伝承工芸館・染付研修所を統合し「瀬戸染付工芸館」へ名称変更
⑯大正・昭和時代
第一次世界大戦後、陶磁器の需要が再び高まり、瀬戸の産業も一時的に回復しました。
しかし、昭和に入ると第二次世界大戦中が勃発し、陶磁器産業全体が衰退しました。
戦後は日本の食生活が洋風化し、和食器から洋食器の需要が高まったため、1970年代以降、瀬戸では海外向けのノベルティ製品(フィギュリン・置物)や洋食器の生産にシフトしました。



⑰戦後~現在
バブル経済期には売上が伸びていましたが、その後は低迷が続いています。
瀬戸染付は、地域の資源と技術を活かして発展してきましたが、時代の変化や市場の動向により、その受容野生産体制が影響を受けてきました。
1997年に「伝統工芸品 瀬戸染付焼」に認定されたものの、職人の減少や市場の縮小が深刻化しています。安価な海外製品が流入し続けていることや、後継者問題が解決できず、職人の高齢化が止まりません。
伝統工芸 青山スクエア

しかし近年は、新しいデザインや技術との融合を図りながら、海外市場へ挑戦したりと、今後の復興が期待されています。陶磁器以外のデザイナーやクラフト作家が活動し、新しい方向性が模索されています。


⑱古窯が近代化産業遺産に認定
日本の産業近代化に貢献した産業遺産としての価値を持っている産業遺産は、よほどのもの以外はその価値が理解されにくく、単なる一昔前の産業設備として忘れられようとしていました。そこで経済産業省は、産業遺産を地域活性化のために有効活用する観点で公募し、いくつかを認定しました。
2007年11月30日に33件の「近代化産業遺産群」と575件の個々の認定遺産が公表され、当館の古窯もその一つとなったのです。
 23.輸出製品開発や国内需要拡大による中部、近畿、山陰の窯業近代化の歩みを物語る近代化産業遺産群
  瀬戸市の窯業・瀬戸焼関連遺産(古窯)・・・PDFの80ページ目