発掘調査

岩崎城跡第4次発掘調査

 天下統一を目前にした織田信長が、京都本能寺において討たれてから2年後の天正12年(1584)、信長に代わり天下人への道を駆け上がる羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、そのライバル徳川家康と直接対決したのが「小牧・長久手の戦い」です。中でも有名な戦闘のひとつに「岩崎城の戦い」があります。家康の本拠地を急襲すべく岡崎に向かった池田恒興ほか秀吉旗下の軍勢は、三河国への入り口に建つ岩崎城を攻撃しました。そして、大激戦の末、岩崎城は落城します。しかし、ここで足止めされたために、徳川方の軍勢に背後を突かれ、秀吉方は壊滅的な敗北を喫しました。家康軍の窮地を救う大変重要な戦いでした。
 小牧・長久手の戦いが起こった頃の岩崎城は、主郭を中心として、曲輪(くるわ)と呼ばれる平坦な区画が取り囲む構造になっています。その姿は、江戸時代のものとされる「愛知郡岩崎村古城絵図」に忠実に描かれています。第4次調査は、この曲輪のうち主郭から北東に200mほどのところにある小さな曲輪を対象として行いました。「古城絵図」には、土塁に囲まれ、中央に井戸を持つ曲輪の姿が描かれています。調査では、この土塁や井戸、四角く掘られた穴などが見つかりました。出土した陶器は、そのほとんどが「岩崎城の戦い」より前に作られたものでした。ただ、出土量が少ないため、この曲輪の成立や合戦時の状況などは明らかにできませんでした。 この他には、古墳を1基発見しました。古墳時代後半に造られたもので、石製の首飾りや鉄の刀などが残っていました。なお、古墳に納められていたと思われる器(うつわ)の破片が、土塁の中から見つかりました。このことから、土塁を作るために古墳を壊し、その土を利用したことが分かります。

土塁上層上面 北から
土塁上層上面 北から

SE01全景 北から
古墳全景 北から

SZ01 管玉出土状況
古墳 管玉出土状況