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発掘調査

本地大塚古墳 西本地町東遺跡の発掘調査

 本地大塚古墳・西本地町東遺跡の調査は、幡山西保育園の園舎建替に伴い、平成27年5月20日から7月31日までの期間実施しました(第1次調査)。また、保育園西側駐車場の擁壁部分については、平成27年10月6日から10月9日までの期間実施しました(第2次調査)。調査面積は、第1次調査が500㎡、第2次調査は65㎡です。
 本地大塚古墳及び西本地町東遺跡は、瀬戸市西本地町1丁目地内に所在します。両遺跡は、瀬戸市南西部、瀬戸川と矢田川の合流地点から南東へ約500mの地点に立地し、周辺は河川により形成された沖積地が広域に拡がり、その南側には幡山丘陵が東西方向へ展開しています。市指定文化財である本地大塚古墳は、全長30.8mの前方後円墳で、主軸を東西方向へ向け、西側に前方部、東側に後円部が配され、後円部に対し前方部が短かい「帆立貝式」と呼ばれる墳丘に分類されています。昭和41年、瀬戸考土サークルにより墳丘付近で発掘調査が実施され、須恵質の円筒形埴輪や朝顔形埴輪、人物や馬を模った形象埴輪の他、須恵器なども多数出土しました。一方、西本地町東遺跡は、本地大塚古墳と西本地A遺跡を含む東西約400m、南北は最大で240mの範囲に拡がり、東側には東本地町西遺跡が隣接して登録され、古代から中世・近世に帰属する遺物が広範囲で採集されています。また、南側の丘陵上には、平成8年、発掘調査が実施された駒前1号墳があり、一辺14mを測る方墳で、墳丘を囲む埴輪列と礫床を伴う主体部からは鉄刀などが出土し、本地大塚古墳に先行する古墳であることが報告されています。また、同じ丘陵上には、駒前2・3号墳の他、平安時代から鎌倉時代の山茶碗焼成窯である大草7・8号窯跡が分布しています。  
 発掘調査は、東西51m、南北13~17mの建物の敷地から遺構及び遺物包含層に影響の及ぶことが予想される基礎部分を対象とするため、掘削深度の浅い中央部を除く東西に延びるコの字状の調査区を設定して実施しました。試掘調査の所見では、現地表面から1.5m前後の厚さで園庭の盛土があり、その下層には20~30㎝の厚さで旧耕作土が堆積し、遺物包含層と古墳に伴う周溝も良好な状態で残存することが明らかになっていましたので、園庭の盛土と旧耕作土を含めた1.7~1.8mの深さまでは、重機により掘削し、遺物包含層から調査の対象としました。
 第1次調査は、重機による掘削作業から開始しました。精査は、グリッドを単位とし、土層の堆積状況の記録及び遺構の確認等のため、各グリッドの東西の軸線を基準に幅30㎝のベルトを残して開始しました。また、遺構が重なり合い、その前後関係を見極めるため、遺構単位で任意にベルトを設定する場合もありました。土層の堆積状況を記録し、遺構プランの全体を確認した後、各遺構の精査に取り掛かかりました。中世の包含層及び遺構は少なく、調査区の東側付近で溝状遺構(1条)を検出できました。古墳に伴う遺構は、周溝、溝状遺構、方形土坑、柱穴などが検出できました。調査区の北側では、3条の溝状遺構が東西方向へ展開し、東側付近では、方形土坑1基と柱穴1基が検出できました。溝状遺構は、蛇行しながら展開し、埋土は概ね灰褐色粘質土層で占められ、埴輪や須恵器などが出土しました。方形の土坑は、調査区の東側へ続くため、全体の形状は不明ながら、床面上からは須恵器が出土しました。柱穴は、1基のみで調査区の北東側に展開する掘立柱建物に伴うと考えられます。調査区の南側で検出した溝は、調査区の中央付近から南東方向へ展開するため、墳丘を取り巻く外側の周溝と判断しました。周溝内は、北側の遺構と同様に灰褐色粘質土層で占められ、埴輪や須恵器が多数出土しました。
 第2次調査は、園舎西端付近を対象に、南北方向へ向け幅2m、長さ32mの調査区を設定しました。第1次調査と同様に、重機により盛土と耕作土を掘削した後、精査を開始しました。南側では、中世の包含層も部分的に残存し、猿投窯の壺や瀬戸窯の小皿などが出土しましたが、中世に帰属する遺構の確認はできませんでした。北側付近は、広く攪乱が見られましたが、第1次調査で検出した溝状遺構につながる可能性のある痕跡や周溝の続きなどを検出しました。また、調査区の南端付近では、内側の周溝の角に当たる部分を確認することができました。検出した内側の周溝は狭い範囲に限られていましたが、埴輪の出土量は特に多く認められました。
 調査では、墳丘の裾から北側へ15mほど離れた地点を対象とし、限られた範囲で実施したにも関わらず、古墳に伴う周溝などを検出することができた点は成果として挙げられます。特に、周溝は墳丘を中心に内側と外側の二重で展開することが明らかになり、更には内側の周溝の北西端の状況を確認することができ、「帆立貝式」に分類される本古墳の構造を考える上で有効的な情報を提示することができたと言えます。調査により出土した遺物は、埴輪と須恵器を主体とし、埴輪に限れば形象埴輪は少ないものの、多くは円筒形埴輪と朝顔形埴輪に分類可能であり、破片資料の接合作業により全体の形状が概観できる個体も完成させました。遺構及び遺物の分析は途中段階ですが、遺物等の所見から本古墳の帰属時期は6世紀前半と考えられます。また、瀬戸市域南部に限れば埴輪を伴う古墳は本地地区に限定され、市指定文化財である本古墳と隣接する駒前1号墳との関係を含め、古墳の構築年代や尾張型に分類される埴輪や須恵器の生産窯炉の問題など解明すべき問題点は数多く残されています。

4区北壁土層断面(南から)
第1次調査 埴輪検出状況

一次窯2室外壁検出状況(南から)
第1次調査 方形土坑・溝状遺構検出状況 東から

4区北壁土層断面(南から)
第2次調査 内側周溝検出状況 南から